南八ヶ岳縦走 平成23年8月14日
今年の夏休みも例年のごとく、ヒートアイランドと化した灼熱の下界を離れて高山に向かいます。
今年は23年ぶりに南八ヶ岳に入山、主脈縦走を終えて昨日、帰宅しました。
フォッサマグナのど真ん中に位置する八ヶ岳連峰、ここが文字通り、日本列島を東西に分断していると言えるでしょう。
今回、南北八ヶ岳連峰のちょうど真ん中あたり、佐久平側の山麓、稲子湯から入山しました。
苔むした森の中を登り始めます。
登り始めて約2時間、ミドリ池に到着です。八ヶ岳連峰の北部には、こうした湖沼が点在し、潤いのある清らかで懐深い静かな森が広がっています。
周囲の森はシラビソを主木に、コメツガ、カラマツ、八ヶ岳トウヒなどの針葉樹とダケカンバを中心とした高山性の落葉広葉樹が混在し、厳しい高地の自然の中で天然更新を繰り返す深い森が形成されています。
山行の初日はミドリ池から1時間程登ったところに位置する秘湯、本沢温泉に宿泊です。
翌朝、夜も明けぬうちに歩き始めます。雲の動きが非常に早く、朝焼けの真っ赤な色合いに、山上の天候を心配しながらの出立でした。激しい風音と上空の雲の動きが天候の不安感を煽ります。
それでも、夜明けの空に浮かび上がる木々や山並みのシルエットは美しく、こうして今年の夏も山の奥深くに分け入ることができた喜びに浸ります。
八ヶ岳南部核心部のピーク、硫黄岳山頂。深い雲と強風の中、視界は数十メートルと見渡せません。背負ったザックごと吹き飛ばされそうな強風です。これが地上であれば猛烈な台風並みの強風ですが、高山ではこうした日も珍しくはありません。
硫黄岳から主脈縦走路を南下します。強風の中、移りゆく雲が時たま薄くなっては光り輝きます。その瞬間、目の前に現れる岩の光景に圧倒される程の神秘的な情景を感じます。
この日は1日中強風の中、猛烈な勢いで雲が行き交う1日となりました。それでも、稜線伝いに山を歩き続けます。
時折雲の合間に視界が開けて山並みが見える瞬間があります。
主峰赤岳山頂へ向かうアプローチも異様な雲が猛烈な速さで行き交います。突風が断続的に叩きつけて、立っているのもやっとです。
こういう日は、岩かげで小休止を取りながら、とにかく目的地に向けて歩き続ける以外にありません。山頂についても一面のガスで何も見えないのですから。
こんな時もあります。いつも晴天に恵まれるばかりではありません。
そんな悪条件の山行の中でも、足元の高山植物が疲れを癒してくれます。高山の草花の最盛期こそ過ぎましたが、コマクサの大群落が稜線上の至る所で見られました。
この日は八ヶ岳南部の雄峰、権現岳山頂直下の小屋で一泊です。
そして快晴の翌朝、夜明け前に小屋を後にしてご来光を拝みに稜線に向かいます。
下界は猛暑日が続いているようですが、標高2700mの朝は震えるほど寒く、セーターにヤッケを着込んで小屋を出ます。
夜明け直前の権現岳山頂と、遠くに富士山が浮かんでいます。神秘的な空の色は刻々と変化し、おごそかなこの日のご来光を息をひそめて待っているようです。
そして北側には、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳と、八ヶ岳主脈の山々が連なります。昨日歩いてきたのがこの峰々です。
雲海の上に光が差し込みました。ご来光の瞬間です。おごそかな感動、静かな感動、高山でしか味わうことのできない荘厳な時間です。
両手を合わせてご来光を拝み、心静かに天と地と向き合います。そして、山上の清らかな空気の中、静かに心を洗います。体の芯から新たな熱いエネルギーが湧き上がってくるのを感じます。
登山を始めたのは高校1年生の夏ですので、あれから間もなく四半世紀を迎えます。重たいザックを背負ってひたすら登り続け、歩き続けたその意味は、山の空気が心身を清らかに洗い流し、新たな力を授けてくれるから、と言えるかもしれません。
ご来光を拝み、そしてまた小屋に戻ります。小屋で温かな朝食を頂くのです。
白い湯気の上がる味噌汁、ホッカホカのご飯、山小屋でいただくご飯はいつもとてもおいしく、食べる幸せとありがたさを実感するのです。
気さくで話好きな小屋番のお兄さん。楽しい時間をありがとうございました。
手にしている写真は、私の造園の師匠、金綱重治氏が撮影した冬の八ヶ岳の写真です。
今年の5月に権現小屋を訪ねた師匠がこの写真を寄贈し、それが飾られていたのでした。
奥深い山中の小屋で師匠にばったりと出会ったような想いです。
私の師匠金綱氏は造園家としても一流ながら、ネイチャー写真家としても一流の腕前で、仕事をしていない時はいつも、どこかしらの山を歩いて写真を撮るという生活を今も続けているのです。
師匠の下での私の造園修業時代、撮影山行に付き合って重たいカメラ機材を担がされて山に登った若き日のことを思い出しました。
写真を見ながら、師匠の思い出話を小屋番のお兄さんに聞かせます。
「造園に必要な素養は、自然が好きかどうか、ただそれだけだ。庭を見るより山に行け。自然から直接学びとれ。」
そんな師匠の考えに共感し、そして私は忠実にそれを実行してきました。
そして、岩峰 権現岳の山頂に到着です。360度、中部山岳の山々を一望できる大パノラマ。「来てよかった。」 この山行の全ての苦労が報われる瞬間です。
権現岳という名称は、おそらくかつての山岳修験道の先達が名付けたのでしょう。
長い間、日本の高山は神々の領域であり、そしてそこは修験行者による修行の場であり続けました。この険しい岩山、八ヶ岳連峰も修験者の聖地のひとつでした。
権現岳山頂の岩、南側の祠越しに見ると、不動明王が正面に立っているように見えます。
ユーモラスな不動明王が見えます。
ところが、この岩を下の登山道から見上げると、その岩は地上の街を見下ろす観音様の横顔が見えるのです。優しげに慈悲深い表情で麓の街を遠く見守ってくれていました。
そして、写真右の岩は、観音様に礼拝している姿に見えます。
山上の奇跡、ありがたい権現様に出会いました。この山がなぜ権現岳と名付けられたのか、ここを訪れてそのありがたい時間を感じることで納得させられます。
権現岳を越えて南斜面を下ってゆきます。冬にはシベリア直通の寒風が吹き付ける八ヶ岳斜面では、至る所に白骨化した針葉樹の枯死木が見られます。そしてその下に、コメツガやシラビソなどの針葉の幼木が集団で生育し、そして毎年少しづつ伸長していきます。
厳しい高山の環境では、突出して大きくなった木々に冬の凍風がダイレクトに吹き込み、幹や葉から水分を奪い、そして枯らしていきます。
高山のこうした厳しい環境が木々の若返りを促進し、高山樹木の多様性を保持してきたと言えるでしょう。
亜寒帯性の針葉樹も、たった一本だけではこの厳しい環境の中では生きていけないのです。突出して大きくなった木々はやがて順番に枯れていきますが、それらが強風を一身に受けて、その下の幼樹の集団を守っているのです。
標高2500mの森林限界付近では、木々がその命を繋いでゆくための闘いが繰り広げられているようです。
そして、更に下り、標高2300m前後まで降りると、これらの針葉樹林の樹冠は徐々に高さを増して、堂々たる高山の森の様相を見せてくれるようになります。
それでも平地に比べれば厳しい環境ゆえ、枯死した大木の幹が点在しています。何万年もの間、この森はこうした生々流転を繰り返しながら、高山の森を維持してきたことでしょう。
そして、標高1500m付近まで下ってくると、ようやく私にとってなじみ深い、落葉広葉樹の森が現れます。ここまでくると、かつての神々の世界から人のぬくもり感じる世界へと舞い戻ってきたことを感じます。
森を抜けて、清里高原の牧場を横切ります。草原の向こうに、八ヶ岳の山並みが望めます。ついさっきまで、あの山上の稜線を歩いていたのです。
山旅の終わりに、清里の父と言われるポール・ラッシュの晩年の住まいを訪ねました。
山並みの向こうに富士山を眺望する清里高原の森の中、崇高な理想を掲げて戦後日本の山村の人々の自立的な暮らしを指導し、農村に民主主義を定着させるべく、その生涯を清里の地に捧げた偉大なアメリカ人、ポール・ラッシュの住まいは、彼の死後30年以上たった今もひっそりと残されています。
彼は、アメリカ人宣教師として関東大震災直後、日本を訪れました。そして立教大学の教授などを務めつつ、日本人の指導者育成に尽力し、当時は貧しい寒村だった八ヶ岳山麓の清里の地に近代農業実験施設や近代日本を担う次期指導者となる青年たちの教育施設つくりに力を注ぎました。
そして戦争が勃発し、日本在住の宣教師たちがアメリカへ引き上げた後も、彼は日本に残り、この国の人たちと共に生きることを決意します。
しかし、その直後、日米開戦と同時に彼は、敵性外国人として捕えられ、アメリカへ強制送還されます。
彼はアメリカへ帰国後、陸軍に志願し、将校となります。日本と戦うためではなく、軍国主義の奴隷とされた日本人同胞を開放し、救うためという信念がありました。
彼の生き方は常に、民族の違いを越えた世界人類への奉仕の心に基づいたものでありました。
強制送還された後、アメリカ陸軍将校となった彼のスピーチに、その全人類的な彼の深い愛情と卓越した視野が感じられます。
「もし我々の文明と人間性が将来の安全と安定を守ろうとするなら、日本国民を奴隷化した日本の軍事体制を完全に打ち負かさねばなりません。私ははっきりと理解しています。
私たちがまずしなければならないことは、この戦争を目的を持って戦い、持続しうるものを確実に追求できるようにすることです。そうすれば、平和はおのずと到来するでしょう。
民族主義的孤立主義に変わって、国際的な思いやりが力を持つでしょう。
私たちは弱きものに対して責任があるということが、至る所でこれまで以上に明らかになるでしょう。そうすれば、世界に法と秩序と正義がもたらされるでしょう。
我々アメリカ人が国内の各地で協力し合うことを学んだように、全ての階級、すべての民族が協力し合う世界を準備することが、キリスト教の教えに従う私たちの人間としての責務になります。」 (1942年、ポールラッシュ)
彼は戦後、GHQの将校として日本を再び訪れます。そして、その後、草の根レベルでの近代日本の民主化、戦後の近代農業の普及、日本を再生する指導者の育成のために私財を投げ打ち、募金を募り、そしてこの清里の地に彼の教育実践施設を育て上げていき、そして清里の農民と共に生き、この地で晩年までの生涯を捧げました。
Do Your Best, And It must be first class.
あまりにも有名なポールラッシュの名言です。ポールラッシュ記念館の入り口にこの言葉が紹介されています。
実際にはこの言葉はポールラッシュのものではなく、日本のために聖路加国際病院を開設したトイスラー博士が、清里村での活動に心を燃やす若き日のポールラッシュに語った言葉の一節なのでした。
ポールラッシュの人生の師であったトイスラー博士は言いました。
「ラッシュよ、お前がもしキリストの名のもとに何かをしようと思ったら、一流のものを築け。二流のものは絶対だめだ。
一流でなければ人々がモデルとして模倣し、受け入れることができないからだ。
それに一流の仕事ができないのなら、何のために日本に来たか、人生のすべてが空しくなってしまうではないか。」
「最善を尽くして一流たるべし。」この言葉はポールラッシュの生涯のモットーとなったようです。
人類愛に基づき、戦後の日本で価値ある仕事を成し遂げたポールラッシュの生涯を感じ、勇気と希望とエネルギーをもらうことができました。
さて、私も今の時代に価値ある仕事を成し遂げるべく、力を尽くそうと。
さて、足踏みしている場合ではありません。私には、私に与えられた大切な仕事があります。その仕事は私自身のためだけではなく、社会のため、今の時代のために私がなすべき仕事です。
旅は、自分の人生の指針を思い出させてくれます。